私と向き合う
もうすぐ春分の日を迎えますね。
去年の春分の日は、思いもよらなかったようなスペシャルプレゼントを受け取った日でした。
私にとって、それはそれは切望していたもので、今までいろいろと乗り越えながら過ごしてきた私へのご褒美だと思いました。
一年経った今も、毎日感謝しています。
この夏以降は内なる自分の掘り下げ作業が進んでいて、今は ”ほぅー” ってなる時間をちょっと長めに味わっています。
キレイな世界を見て生きていたい自分と、
歪んで見える世界を本当は知っている自分、
その中で痛みを無視してやり過ごした過去。
すべてを今の私の出来うる限りで大切に味わいます。
自己受容のキャパシティが広がる感覚を得ることもできたし。
過去に経験した痛みが心の奥のほうに静かに沈んでいて、それを呼び起こしては再確認しながら癒して手放す時間にもなりました。
人は自分を守るために嫌な記憶を失くしてしまうことがあると言われます。
記憶は失くしても心の傷は残ったままで、時にはそれが本人を苦しめたりもするのです。
自分にもそれが起きていた事に気づきました。
なぜだか神社の朱色がゾワゾワと落ち着かない。
湿った土や植物のコケに怖さを感じる。
理由がない自分の感覚が不思議でした。
そして今になってようやく思い出しました。
6歳の頃、大きな神社の本殿裏の薄暗い場所で、浅葱色の袴を着た神主から性的いたずらを受けた記憶を。
”もし自分の娘が同じ事をされたら” と考えるとたまらなくなるような出来事でしたが、”あぁ、神社が気持ち悪いのはこれだったのか” と冷静に客観視できる自分にもなっていました。
そしてただ、当時の幼い自分が感じたけど誰にも言えなかった ”嫌だ” という感情を、今を生きる大人になった私が受け入れました。
その他にも、
ウチの子、男子2人が最近にしては珍しく小競り合いを始めた事があったのですが、その時に長男が次男に対しておこなった、ちょっとした動作で、私はフラッシュバックを起こしました。
兄から受けた虐待の恐怖が今になって呼び起こされたのです。
いつ始まるか分からなかった兄からの自分への攻撃は、結構深い傷になってるんだなぁと再確認でした。
これまでにも、何度も何度も泣いてあの時の感情を味わっては手放しをするワークを繰り返しやってきたはずなんだけど、楽になってるはずなんだけど、兄を許して今は大好きなんだけど、やっぱりこうしてフラッシュバックを起こすんだと、正直に言えばショックでした。
感情のコントロールが不能になり、半日泣き崩れた後に寝落ちしてようやく落ち着きました。
でも落ち着きを取り戻してから感じた事は、今が安全安心の中にいるからこそ、この痛みを吐き出せたんだという、私のインナーチャイルドからのメッセージでした。
かつての私は「大丈夫。こんなのたいしたことじゃない」と常に自分の痛みを抑えつけて生きてきたので、やっと気兼ねなく解放できる自分になったんだと感じました。
兄はその当時の記憶をほとんど覚えていません。
今も思い出せないそうです。
兄にとっても深い深い心の傷になっている証拠だと思っています。
みんな、あまり人に言わないだけで、奥底に治り切らない傷を抱えて生きています。
自覚のあるなしに関わらず、傷はいつも鈍い痛みを伝えてきています。
どれだけキレイな世界で生きようとしても、その傷を放置したままでは進めなくなるタイミングが来ます。
痛みを感じたままで深い沈黙を続けてきた健気な自分を大切に大切に抱きしめる、そんな今です。
心の奥の奥にあるほんとのところは、自分でしか癒せないから。
今日たまたま、すれ違った人も
いつもニコニコしている会社の先輩も
私と全然違う時間を過ごして生きてきているけど
それぞれ痛みをそっと抱えているのだと思います。
みんな、一緒。
自分自身の内面を受け入れて、愛おしいと思うたびに
他者への愛おしさを感じます。
人ってこんなに強いけど、
人ってこんなに繊細だから。
人ってとってもずるいけど、
人って限りなく真っ直ぐで正直。
生きてるって、愛おしい。
私の内側の世界と
外側の世界にあるすべての
どす黒い陰と真っ白な輝きを
そっくりそのまま
「在るよね。そうだよね」
正面から受け入れて
そう言える私に逢いたい。
そんな旅路です。