わたし流で
結婚し、赤ちゃんがお腹にいると分かった時、素直に嬉しかったです。
生まれた子どもを抱いた時、泣く以外に何もできない生命に感動しました。
“この子は自分の全てをかけて、私への信頼を伝えてくれているんだ”
と感じました。
愛情に包まれることを欠けらも疑っていない、透明なこの子を裏切りたくないと思いました。
やがて2人目が生まれました。
長男のやんちゃも始まり、叱る場面もでてきます。
そしてだんだんと怖くなってきました。
私の子育て、本当に合ってるんだろうか。
私の兄みたいに思春期で荒れ狂ったらどうしよう。
不安に駆られて子育て書を読み漁りました。
今の私の結論から言えば、お互いに信頼関係が成り立っているならそれで正解。
方法、理論なんて自己流でも何でも好きなのをやってみたらいいんだなと思います。
でもそれは経験を経て感じることで。
その時の私は焦りでいっぱいでした。
そして私にとっては一番納得できた、アドラー心理学に基づく子育て法をちょっとやってみることにしました。
子どもは別人格なんだと認識する。
子どもに選ばせて、それによって起こる問題も責任も本人に受け止めてもらう。
それができる能力が子どもにあるのだと信じる。
ものすご〜くザックリ言えばそんな感じの事です。
私はそれによって子育てに対して気楽になれました。私には合っていたようです。
例えば、洗濯物。
「洗濯カゴに入っているものはお母さんが担当して洗います。それ以外のところに脱いだものはお母さんは洗いません。このルールでいい?」と必ず全員に聞きます。子どもたち全員が“了解すること”を選んだらルールは有効です。
そしてさっそく汚れた体操服がリビングに脱ぎっぱなし。声は掛けます。
「洗濯カゴに入れておきなよー。」
「はーい。」
そして洗濯の時間にやっぱりリビングにある体操服。私は子どもが選んだ行動を尊重して本当に体操服は洗いません。
子どもはリビングに放置された汚れた体操服を見て「なんで洗ってくれてないの」とは言いません。自分が選んだ行動の結果だと理解しているからです。私も脱ぎっぱなしの体操服の事を知らんぷりしておきます。その子が選んだ行動の結果をちゃんと受け入れると信じているからです。そしてそっと汚れた体操服を着て学校に行きます。その日、帰ってくると必ず体操服は洗濯カゴに入ってます(笑)
はたから見たら「厳し過ぎない?」と思われるかも知れません。実際に周りの人は子育てについてあれこれ言ってくると思います。
特に私の母は「もっとああしなさい。こうしなさい。」と言いました。その頃は “どの口が子育てを語ってるの…” と内心反発しましたが(笑)
最大のポイントは相手が選んでいないことを押し付けない事です。
そして子どもに何かを伝える時のスタンスは「お母さんはこう思うけど、あなたはどう思う?」です。
お互いの気持ちが相反する時は、ひとまず相手がなぜそう思うのかを理解するところまでは話し合いを続けます。
肝に銘じているのは、
「子どもは私の所有物ではない。」
「子どもは私の思い通りになんてならない。」
ということです。
何年も続けていると、3人の子どもたちはそれぞれに自分の行動の責任を取ることを自然と行います。
朝は起こすことなく勝手に起きてきます。寝過ごしても「なんで起こしてくれないの」と私に言ったことはありません。
高校生の息子は前日にお弁当を出し忘れたら、その日のお昼ご飯は私にお金をもらわず自分のお小遣いで学食に行きます。
どの子も前日に水筒を出し忘れたら、私が何も言わずとも、朝に急いで自分で洗ってお茶をつめています。
「そもそもがだらしない」ってビックリする人もいるでしょう(笑)
だけど私は、そもそもちゃんとできなくていいと思っているんです。その結果起こる事を受け止めてくれればそれでいいと思っています。私だってちゃんとできていないことがたくさんあって、子どももそれを知っています。
お互いがお互いの責任を区別して受け入れているので、責めることも責められることもありません。
だからごまかす事なくありのままでいてくれています。
ホント、どんな子になる子育てがベストなのか分かんないですが(笑)、親子の信頼関係があるので私にとってはこれが正解です(笑)。
よく言われる言葉。
“人生は選択の連続”
私を含めて、今自分が置かれている現状は全て自身で選びとってきたもの。
だから誰のせいにもできません。ちゃんと受け入れて、また次の選択をする。
それは感情だって同じですよね。どんな感情を心に残すかを選択するのも自分次第なんですね。
そしてその選択肢は選びたい放題。
自由自在です。